私にとって保守とは

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 倉山満先生の「保守の心得」を読んだ。そちらの感想はまた近々あげるとして、私の考える保守、というか、本当はブログを立ち上げるときに書くもののような気はするが、私がこのようなブログを立ちあげるの至った理由を書いておきたいと思う。

 若い時ははっきり言ってウスラサヨクだった。日本国憲法は平和憲法だと思っていたし、君が代は口パクだった。日本はなんだかよその国にひどいことをしていたようだ、と思っていた。しかもどういう風にひどいことをしたのかをよくわかっていない、というひどいものだった。

 何しろ社会科は嫌いだった。歴史も地理も公民の教科書も読んでもさっぱり意味が分からないので、大切なキーワードを暗記してテストでは点数をとっていた。自慢ではないが、これで中学のテストは満点を取ったこともあるし、高校は進学校だったが8割、9割は取れた。しかし、短期記憶にとどまるし、流れとしての歴史はつかめなかった。改めて考えるとこれが学問なのか?

 何かがおかしいと気づいたのはだいぶ大人になってからだった。小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」を読んで、氏の慰安婦問題に関しての作品を読んだときに、マスコミで騒がれていることと、小林氏の書いたことを比べると、明らかに小林氏の書いたものの方が、きちんと資料も提示されているし、理論的で正しいものだと思えたのだ。

 その後、朝日新聞やTBSなどからの小林氏に対するバッシングが行われるようになるのだが、小林氏の著作を勝手に引用した作品に対する裁判が行われた際、一審で小林氏が敗訴した時は、朝日新聞は鬼の首を取ったかのように報道したのに、二審で勝訴した時は、ほんの小さなスペースで報じただけだった。そこで改めて、メディアの自分の都合の悪いニュースは流さない、新聞やテレビの言っていることを真に受けていては騙されてしまうことに気が付いた。

 私は、テレビや新聞だけではなく、同じニュースもインターネットで調べて情報を得るようになった。改めて検証してみると、いかに大メディアが真実のみを報道するわけではない、誤った情報を流してもそれを訂正もしなければ謝罪もしない、さらにはわざと間違った報道で日本を追い込むようなことをしていることを知った。教育に関しても、いかにゆがんだ教育を受けていたかを知った。それは今も続いている。息子の社会科の教科書を読んだことがあるが、ひどいものだ。学校教育でこんな偏向した教育を受けさせて、どうやってまともな大人になるのか。

 そうやって私は様々な情報をインプットしてきた。しかし、これを人に話しても、おかしな人間だと思われるだけ、実際にこういった話をして喧嘩になることもある。ただただ自分の中だけで知識を増やしてきたが、それではいけない、と思うようになった。

 一番の理由は息子だ。彼に私たちが受けてきた間違った教育、プロパガンダによりゆがめられた歴史、そんなものを負わせたままでよいのか、との思いがだんだん強くなっていった。自分の国を愛せない、外国に行けば、昔のことで犯罪者よばわりされるような状態のままでよいのか。

 私には、ある種の障害のようなものがあって、それは治るものではなく、一生付き合っていかなければならないものなのだが、ずっとそうであったし、それとの付き合いにも慣れたので、自分一人の問題ならば、大したことではないと思っている。しかし、それで悩んでいる、特に若い人たちにとって、それと向き合い、克服するための助けになればと思い、そのための協力をしている。若い時に自分が味わってきた苦しみ、どうにも出来ない思いや不安、それを若い人たちが少しでも和らげることができればと思っている。

 今の日本、日本人も病にかかっているのと同じだ。今、私が学んでいること、それを少しでも分かち合って、この国を良くするにはどうしたらよいか、と考える人が増えてくれればと思う。

 私が考える「保守」とは、何を保ち守るのか。もちろん、私たちが住んでいる日本であり、住んでいる人々であり、家族である。どうやって守るのか。この国の文化、伝統、歴史を学び、健全な国のあり方について考え、多くの人たちと共有すること。大それたことはできないが、少しずつでも広げていければと思う。

※こちらの記事は平成26年3月6日に書かれたものです