倉山満 国民が知らない上皇の日本史 感想②三種の神器とは

倉山満 国民が知らない上皇の日本史 感想②三種の神器とは

 前回の予告通り。今回は三種の神器について語りたいと思います。

 そもそも三種の神器とはなにか。『古事記』の上つ巻にも既に記述があり、天孫降臨の際には天照大神が邇邇芸命に鏡・勾玉・剣を授け、践祚の際にはこれを受け継ぎます(剣璽等承継の儀)。

 前回のブログで「即位と践祚は違うの?」と書きましたが、簡単に説明するとこうなります。

○践祚・・・皇嗣が皇位を継承すること
○即位・・・皇位についたことを内外に宣言すること

 践祚と即位は古代から区別されていたのですが、敗戦後の改正された皇室典範で践祚という言葉が使われなくなり、現代では元々の践祚が即位、即位が即位式に変わっています。その経緯はさておき、三種の神器が、践祚の儀式に使われるというだけではなく皇室にとって大事なものであることは間違いありません。では天皇自身を守るより三種の神器を守ることが優先されることなのでしょうか。

 ここで南北朝正閏論争について少し述べたいと思います。

 建武の親政の崩壊後、後醍醐天皇とその子孫たちの南朝と京都の北朝に皇統が二つにわかれたためにどちらが正統なのかという論争が明治になっても続いていました。一応の決着がついたのが明治44年(1911年)2月4日。帝国議会で南朝が「正」、北朝が「閏」とされる決議が行われました。

 これには維新の志士たちが皆読んでいたといわれる古典『太平記』や徳川光圀が編纂した『大日本史』、『大日本史』から派生した水戸学の影響があったと思われます。後醍醐天皇に仕えた楠木正成は忠臣でヒーロー、足利は逆賊。このことは南北朝正閠論争が一応の決着をした後も、足利尊氏を褒める論文を書いたばかりに、それが元となり商工大臣だった中島久万吉が辞職に追い込まれることになるほどだったそうです。

  徳川光圀の『大日本史』に強い影響を与えたのは北畠親房の『神皇正統記』と言われています。北畠親房は後醍醐天皇に仕えた南朝側の公卿、南朝を正統として書かれています。南朝側の人間が書いたから結論が決まっているということではありませんが、実際には矛盾があります。親房は尊成親王(後鳥羽天皇)への践祚は認めているのに、光厳天皇への践祚は三種の神器がなかったことを持って正当ではないと言っているのです。寿永2(1183)年、落ちぶれた平家軍が幼少の安徳天皇を三種の神器を伴って西方に逃げたため、後白河法皇は治天の君として尊成親王(後鳥羽天皇)を践祚させます。安徳天皇と後鳥羽天皇の在位期間は被っています。この時の践祚を親房は後白河法皇による「伝国詔宣」と認めているのに、光厳天皇への践祚が後伏見天皇の「伝国詔宣」だったことは意識的に無視され、三種の神器がなかったことを理由に正統な皇位継承ではなかったとしていると『現代語訳 神皇正統記』今谷明先生は指摘します。そして、践祚の時こそ三種の神器は光厳天皇の元にはありませんでしたが、後に揃っています。その神器は後に偽物だったから返せと後醍醐天皇は言っているのですが、では本当の神器は一体どれなのかという話です。現代では研究もすすみ、三種の神器しかなかった南朝に比べて、それ以外の儀式の実態など他のことは北朝にあったことも明らかになってきています。三種の神器は大事、しかしながら本当にそれだけで皇統の正統性が認められるものなのでしょうか。

 さて、前回の『天皇の講座』でも名前の挙がっていた三島由紀夫です。三島と石原慎太郎の対談「守るべきものの価値」ですが、改めて読んでも「刀を持っている」だの「僕だって飛び道具を持っている」だの冷静な対談だったのかという印象を受けました。

 この対談の裏話は『三島由紀夫と戦後』(中央公論社 2010年)に石原慎太郎のインタビュー『三島さん、懐かしい人』として掲載されています。三島は居合いの稽古の帰りでたまたま刀を持っていたと言っていましたが、石原氏は「嘘をつけ」と思っていて、次の日に三島の家に電話して、家政婦さんに何時に三島が家を出たかを確認したところ、対談の直前の時間に外出していたそうです。三島はわざわざ見せるために真剣を持って来ていたということになります。

  三島のこの行動が何を意味するのかわかりませんが、この頃の出来事を時系列に並べていろいろ考えることは出来ます。

 戦後の社会主義者、共産主義者はこの頃様々な事件を起こしました。そんな中、三島が自衛隊に体験入隊したのは昭和42年、楯の会を立ち上げたのが昭和43年です。この石原との対談が行われたのは昭和44年の11月、この少し前の10月21日に、三島にとって衝撃だったと思われる国際反戦デー闘争があります。これを警察が鎮圧したこと。このことで憲法が改正出来なくなったと、三島は、この約1年後に彼が割腹自殺してしまう自衛隊での演説で述べています。

 この後、三島、石原と仲の良かった村松剛も「三島が死にたがっていて心配だ」と石原氏に言っていたそうです。普通に考えても実現するはずのない自衛隊の決起。三島の胸にあったのはなんだったのでしょうか。

 さて「三島は玉体より三種の神器が大切だなんて言っていない!」という人達がいます。三島は皇統こそが守るものだと言っているのだと竹田恒泰氏は言うのですが…

【竹田恒泰】ご譲位って何するの? 一番重要なのは三種の神器の継承

 「三種の神器あってこその天皇」「三種の神器が失われたらもう天皇は終わり」って…

 昭和天皇が三種の神器をどのように守ろうとしたのかとの話が出てきますが、もちろん三種の神器は大事です。竹田氏の言い分もわからないではないのですが、平和な時代、誰も現在の陛下にとって変わろうなどと考える人がいないという前提でないと成り立たない話ではないでしょうか。

 では現在皇族ではない人が、力づくで三種の神器を奪ったらどうなるのでしょうか。例えそれが皇室の男系の血を受け継いでいる男性であったとしてもです。「 禁闕の変 」が起こったとき、当時の人達は、神器を奪った人が正統な天皇だと思ったでしょうか。現在は皇室典範で皇位の継承順位がはっきり定められていますので、誰かに奪われたとしてもその人が天皇になるわけではありません。しかし、それは南北朝の時代でもそうだったのではないでしょうか?はっきりした継承順位が定められていないとしても。それを果てしない思想戦の末に後の時代に南朝が「正」、北朝が「閏」とされたという話だと思います。竹田氏の本は何冊か読んで勉強していますが、この発言はあまりに危うい気がします。彼の言い分が本当なら皇室の潰し方をわざわざ公開していることになってしまいます。

 結局、竹田氏の説も三島の発言も、「南朝正統論」に立っている気がします。竹田氏はわかりませんが、このどちらを正統とするかの結論は、「天皇親政」か、そうではなく嵯峨天皇以来の「天皇不親政」をとるかの違いなのかもしれません。ちなみに大本ともいえる『神皇正統記』は必ずしも天皇親政が良いと言っているわけではないようですが。

 三島の場合、二・二六の青年将校に思い入れが強く、いくつもの著作、特に『英霊の聲』では所謂「人間宣言」に対して激烈とも言えるような昭和天皇批判をしています。『文化防衛論』でも三島は「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪っていた」と言います。お前ごときが偉そうに三島を語るなと言われればそうなのですが、この『文化防衛論』といい、『英霊の聲』と言い、三島の見ていた天皇や皇室というものは、現実の先帝陛下や積み重ねてきた歴史ではなく「私のこうあるべき天皇」にしか思えないのです。

 それは二・二六の青年将校や彼らの精神的支柱となった北一輝においてもです。現在はweb上でも北一輝『日本改造法案大綱』磯部浅一『獄中日記』は読むことが出来ますので一度読んでいただきたいのですが、私には『日本改造法案大綱』など天皇大権を利用した共産主義革命マニュアルとしか思えませんし、磯部の『獄中日記』も、「なんで陛下も愚民どももこの改造法案の素晴らしさに気づかないのか!!」というルサンチマンにしか見えません。彼らは天皇親政と口では言っても、本気でそれを信じているのではなく、自分たちの都合よく動く天皇を想定しているわけです。昭和天皇は望んでいなかったのに、勝手に陛下から預かった軍を動かし、総理を初めとした閣僚を襲い「さあ、姦臣どもは討ちました。どうぞ陛下、親政を」とやったのですから。少なくとも本当に彼らが実現したかったのが「天皇親政」なら昭和天皇が一貫して「すみやかに鎮圧せよ」と言っていたことを知ったその時点で降伏するか切腹するかではないでしょうか。少なくとも獄中で恨み節はあり得ないと思います。青年将校の中に純粋に国や窮乏している人達を思って行動した人がいることは否定しませんが、彼らのとった行動は愚かとしか言いようがなく、これを賛美し、昭和天皇を非難しつつ、守るべきものは「三種の神器」だと云う三島の言い分がどうしても理解出来ないところではあります。

 そもそも守るべきものが「皇統」ならまだわかりますが、なぜ「三種の神器」なのか。繰り返しますが、その時代背景としての、「南朝正統論」「南北朝正閏論争」それにつながる「天皇機関説事件」(天皇親政か不親政か)があるのだとは思います。そして問題なのはその時代背景の元、そのような考えに至った三島というよりも、三島の言葉を金科玉条にする人々ではないでしょうか。その方達が自分の学びの末に、それが三島を通じてでもそのような考えに至ったというのなら良いのですが、私がこちらのブログでもしばしば取り上げている呆守の方達。三島を取り上げて8月8日の天皇陛下のお言葉を「平成の人間宣言」などと言った人を私は厳しく批判しましたが、三島はこのような人達に己の言論を利用されることをよしとするのでしょうか。チャンネルくららで倉山先生は「生きていたらチャンネルくららに出て欲しい人No.1」と三島のことを言っていましたが、現在の彼の言葉を聞くことができたなら是非それも聞いてみたいです。

 さて、ここまで書評なのかなんなのかわからないことを長々述べて来ましたが、ここで「上皇」という存在が皇統を守るために大切なものだという話になります。

 後鳥羽天皇への践祚の正統性は後白河法王が治天の君としてそれを決めたからでした。北畠親房も認めています。これは三種の神器が皇位継承の絶対条件ではないという「先例」ですよね。この後、壇ノ浦で追い詰められて安徳天皇は入水し、草薙の剣も失われました。三種の神器がなければ皇位継承が出来ないとしてしまったら、皇室は存続していなかったのではないでしょうか。それ以前に上皇が次代の天皇を定めれば良い、という先例を作っていた。それで皇室は現在も存続している。これが何度も倉山先生が『天皇の講座』で述べている「タマタマ」ではないでしょうか。しかもこのことすらも、結果として後白河法皇が勝った側だから正統だと認められているとも言えなくはありません。保元の乱以降、所謂警察権力だけではなく「武力」という手段を使うようになってしまったために、治天の君の権威だけで法的革新が得られる時代では無くなっているわけですので。この「タマタマ」は前回も述べましたが、決して軽い意味ではなく、なんとしてでも皇室を存続させなければならないという、皇族方のそしてそれを守りたい人達の執念ともいうべき強い思いからなるものだと思います。

 ここまで書いて来たことは、前回の「私達は歴史を知らない」にも通じる話です。今まで私が語ってきたことは、ちょっと歴史に詳しければ知っている人も多い話だと思います。しかしながら、ただ歴史の年表を暗記しても意味はない、その時代や状況、その歴史を伝えた人のことを知れば違う側面も見えてきます。

 倉山先生は歴史の話をするときに、それを現在の出来事のように話をします。学問とはただ知識のみを追うのではなく、それを「追体験」することでより身につく。これは、近々こちらのブログでも取り上げる予定の、昨年、江崎道朗先生の書かれた『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』の記述でもあります。日本の敗戦が濃厚となり、政府が右翼全体主義者や左翼に牛耳られる中、それに立ち向かった保守自由主義者達。彼らがなぜそのように行動できたのか。それこそがこの「追体験の学問」によるものでした。今回、なぜ三島が守るべきものを「皇統」や「玉体」と言わず「三種の神器」と言ったのか。そこまでの時代背景を追うため調べたり、読んだりしました。結論としては、やはり三島の考えは私にはわかりませんでしたが、今の時代とはまた違った危機感を三島は抱き、それに駆られて行動していたのだろうと思いました。

 小出しにすると言いながら長くなってしまいました。次回は「天皇には意思がある」あるいは「先例重視は先例主義でない、ましてや設計主義ではない」というテーマでのべたいと思います。それより先に、他の作品とか、それこそ小出しに色々書くかもしれません。では。

〈参考文献〉

日本一やさしい天皇の講座 (扶桑社新書)

倉山満が読み解く 太平記の時代―最強の日本人論・逞しい室町の人々

倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々

現代語訳 神皇正統記 (新人物文庫)

現代語古事記: 決定版

この国を滅ぼさないための重要な結論 《嘘まみれ保守》に憲法改正を任せるな! (Knock‐the‐Knowing)

中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後

コミンテルンの謀略と日本の敗戦 (PHP新書)

尚武のこころ 三島由紀夫対談集 守るべきものの価値 われわれは何を選択するか 石原慎太郎(作家・参議院議員)月刊ペン 昭和44年11月号

※こちらの記事は平成30年9月24日に書かれたものです。