倉山満 世界一わかりやすい日本憲政史 感想

世界一わかりやすい日本憲政史 明治自由民権激闘編

世界一わかりやすい日本憲政史 明治自由民権激闘編

倉山満
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ありそうでなかった倉山満先生による初の憲政史の本。

なぜ、日本の政治は不甲斐ないのでしょうか?

安倍総理が2012年12月に返り咲いてもうすぐ7年、11月20日には桂太郎を抜いて、日本の憲政史、最長となる見通しです。
マスコミは「安倍一強」と言いますが、実際に安倍総理は何を成し遂げたのでしょうか?
「強い経済」、「デフレ脱却」を旗印に政権与党になり、首相になったにも関わらず、やり遂げたのは、約束違反のデフレ脱却前の増税。
さらに、あれから7年も経とうと言うのに景気回復もデフレ脱却も出来ないまま2回目の増税で国民に死刑宣告するような真似をしています。
何度も「憲法改正」すると言いながら、全く前に進まないまま。
そもそも景気回復も出来ない総理に「憲法改正」など大それたことが出来るはずもありません。

ではなぜ日本で一番の権力者である総理大臣が国民の圧倒的な支持を得て始めたはずの景気回復すら出来ないのか?

総理にリーダーシップがないからか?

実は日本の政治は指導力では動いていません。
それは明治も令和も変わらない。

それを読み解くために歴史を学ぶことが大切だと倉山満先生は言います。

こちらの本は、明治40年、日露戦争が終わって、3つの協商が結ばれ、日本がロシアの復讐戦を恐れなくてもよくなった年までの日本憲政史について描かれます。

日本が、列強に蹂躙されることなく文明国として生き残るための、先人の喜劇のような、悲劇のような奮闘の歴史です。

・この通説って本当?

P2より引用

通説
明治時代の日本は、藩閥専制の時代だった。非民主的な明治憲法により、政党内閣制はなかなか実現せず、普通選挙制度も有権者は男子のみ。わずかの期間だけ実現した政党内閣はとてつもなく腐敗していた。

引用終わり

いろいろ突っ込みどころがある通説です。

主な出来事を時系列で並べると色々見えてくることがあります。

・1868年      ・・・討幕、五箇条の御誓文
・1874年(明治7年)・・・地方議会創設
・1875年(明治8年)・・・立憲政体の詔
・1881年(明治14年)・・・国会開設の勅諭(10年後に国会を開く!それより前に憲法を作る)
・1884年(明治18年)・・・内閣制度創設、第一次伊藤博文内閣
・1888年(明治22年)・・・帝国憲法制定
・1890年(明治23年)・・・帝国議会開会、憲法施行
・1894年(明治27年)・・・日英通商航海条約、日清戦争
・1904年(明治37年)・・・日露戦争
・1907年(明治40年)・・・協商の年

・1924年(大正13年)・・・憲政の常道

そもそも幕府を倒した後も、士族反乱も続いていたわけですから、初めは長州、薩摩閥が中心になることは致し方無いでしょう。
非民主的な明治憲法によりと言いますが、そもそも政党内閣制を禁止するようなものが帝国憲法にあったわけでもありません。
政党内閣制の実現と言っても、福沢諭吉ですら政党と徒党の区別がつかなかったといいます。

憲政の母国と言われるイギリスですら、マグナカルタから数えて600年、実際は200年で二大政党制にたどり着いたことを考えると、討幕から60年にも満たない期間で憲政の常道にたどり着いたのは恐るべきスピードでしょう。
早すぎて失敗したのではないかとすら思えます。

こんな状況で討幕から40年で大国であるロシアと戦ってどうやって勝ったのか?
第一回帝国議会など副議長すらなかなか決められないほどのグダグダぶりです。

・自由民権って平和な人達?

「板垣死すとも自由は死せず」
刺されたときこんなことを言ったとか言わなかったとか。
私の板垣に関するイメージはこんなものでした。

学校でどのように自由民権の人達について教えているか?
ちょっと版が古いですが、手持ちの中学生向けの教科書、東京書籍『新編 新しい社会 歴史』によると

・政府の中心となった大久保利通が殖産興業を進めると共に、国内の支配を強めて行った。政府を去った板垣退助らは、これを専制政治的であると批判し、国民が政治に参加できる道を開くべきだと主張して、1874年(明治7年)1月、民撰議員設立の建白書を左院に提出した。
・西南戦争後、旧薩摩藩・長州藩出身者などによる専制政治(藩閥政治)への批判は言論によるものが中心となり、国民の参政権を確立することを目指した自由民権運動が広まった。
・運動には商工業者や地主(豪農)なども参加するようになり、国会開設を求めた。運動はさらに国会において自分たちの憲法を制定しようとする方向に進み、多くの憲法草案が民間で作成された。
・運動の高まりに対し、政府では国会開設や憲法制定をめぐって意見が分かれた。民権派の政府攻撃に政府がたおれることを心配した伊藤博文らは、憲法の即時制定と国会の早期開設を主張していた大熊重信を政府から追い出すいっぽう、10年後に国会を開くことを約束した。
・国会開設の約束を勝ち取ったのち、民権運動は政党の結成へと進んだ。

うーん、これだけ読むと、国会開設も憲法も政党政治も、自由民権の人達の運動によって勝ち取られたもののように見えますね。

しかしながら、憲法制定は自由民権の運動家たちのみでなく、維新の中心にいた元勲たちの悲願でもありました(詳しくはこちらでも感想を書いている『帝国憲法物語』で)。
議会もいきなり国会からではなく、明治7年に兵庫県で県議会制度を導入したのを初めとして、全国で県会が開かれて行きました。
立憲政体の詔も明治7年に出されて、いずれは立憲政治を目指すという意思が示されています。
そして板垣自身、明治8年の3月には参議に返り咲き、しかしながらまたその年の10月に辞任しています。
結局よばれれば政府に入り、意見が合わなければ出て行き活動する。
これで自由民権こそ日本の民主主義を主導したかのような印象操作をされては、たまったものではありません。

明治14年の国会開設の勅諭で国会開設が決まると当然ながら自由民権の運動はオワコンになってしまいます。
その後、活動家たちが何をやったか?
150件以上の武装蜂起です。
明治17年、松方デフレで地獄のような不況が訪れ、死人が続出した末の出来事です。
現在20年にも及ぶ不況で暴動一つ起こらないのも不思議な気がしますが、単なる非合法活動です。
結局、これで自由党は解党。
それでも板垣は後にまた返り咲くのですから、つくづく日本は本当の意味で民主的な国なのだと思います。
失敗しても抹殺されないわけです。

ちなみに、板垣自身が、星亨を自由党に入党させては?と推薦された時、「世間では火付盗賊自由党と呼び称されているくらいだから、金持ちの入党は覚束ない」と言ったとか。
今の教科書で教わる自由民権の評判を聞いて一番驚くのは板垣かもしれませんね。

・日本の政治は拒否権で決まる!

その後、1888年に帝国憲法が制定、1889年に帝国議会が開催されました。

通説では、明治憲法下の衆議院は、何の権限もなく、唯一与えられたのは、予算の先議権だけだったなどと言われていますが、本当でしょうか?

そもそも予算とは国家の意思、帝国憲法では第71条で、予算が成立しないときは前年度予算が成立しない時は前年度の予算を施行するという来ていたありますが、第一回帝国議会は前年度予算がありません。
自由民権運動以来の民党が多数派の衆議院は予算を人質に減税を求め、それを政府側が暴力で脅すと、今度は殺し屋を買収して事なきを得、、、。
まだまだ民主主義が未熟だったとはいえ、このような時代が日本の近代にもあったのだと驚かされます。
日清戦争の直前の明治26年(1893年)ですら、衆議院は衆議院は軍艦建造費を否決。
しまいには、天皇が「皇室経費から最小限のもの以外は全部削るから、これで軍艦をつくれ」と言う始末に。
本当によくこれで日清戦争に勝てたものだと思います。
しかしながら、日清戦争開戦が決まると、それには賛成でいきなり挙国一致。
平和な人達ですね、自由民権の人達は(棒

しかしながら、常に衆議院が拒否権集団だったわけではなく、時には官僚機構が、時には貴族院が拒否権集団となり、日本の政治は進んで行きます。

日本の政治は強い政治家ではなく、拒否権集団に左右されながら動いてきたという歴史をまず認識することが、現在の政治を見る一つのポイントと言えます。

・現在の拒否権集団は誰だ!

消費税10%まで後、一週間。
強い経済、デフレ脱却する前の増税はしないと言って政権に返り咲いた自民党、その総裁の安倍総理。
その安倍総理が未だに景気回復を成し遂げないまま、二回目の増税をするなど何の冗談か?
今回の増税に関して、財務省の強い意思、なぜか増税に反対しない連合、増税反対を本気でいれば与党になれるチャンスがあるのに、何もしない野党。
財務省が強い官庁であることは今では誰もがしるところですが、では本当の最強官庁は?

先日ようやく、長く内閣法制局長官を務めていた横畠裕介氏が退任することとなりました。

安保法制の議論がされているときに、政府側の主張をするために、国会でよく答弁していたため「安倍首相の味方!」とばかりに、彼を誉めていた安倍支持者の人達がいましたが、彼がどのような人物だったのか、皆様ご存知なのでしょうか?

元々、集団的自衛権を盛り込んだ安保法制を通すために、例外的に内閣法制局長官に安倍総理がねじ込んだのは、先の小松一郎長官でした。
例外中の例外の人事。
衆議院、参議院を勝ち抜き、絶頂機にあった安倍総理だからこそ出来た人事でした。
その小松長官に内閣法制局が継子いじめのような嫌がらせをしていたことは、産経新聞が報じています。

【国益より憲法-検証・内閣法制局(上)】 首相に逆らう法の番人「憲法守って国滅ぶ」

小松長官は末期がんでした。
平和安全法制が成立する見通しが立ったところで、小松長官は辞任し、その年2014年の6月に亡くなりました。
その後に内閣法制局長官になった横畠氏。
横畠氏は、第一次安倍内閣で集団的自衛権を推し進めるのならば、当時の法制局長官と辞表を出すと迫った人物です。
記事はもう消えていますが、「≪罪深きはこの官僚≫横畠祐介(内閣法制局内閣法制次長)「憲法の番人」復活を画策する次期長官」という記事に書かれていました。

(記事より引用)

 横畠は検事出身で一九九九年八月に法制局に出向、総務主幹、第二部長を歴任し、「次の法制局長官が確実視されたエース」(法制局関係者)だ。過去にも、安倍晋三内閣が集団的自衛権の行使容認を目指して懇談会を設置した際、第二部長だった横畠は、当時の法制局長官の宮崎礼壹とともに「強引に推し進めれば辞表を出す」と迫った過去がある。

(引用終わり)

平成から令和への改元、一世一元の制なのに、その新元号を当時の天皇(現在の上皇陛下)が署名、公布することになったのは、政令の公布を「新天皇に公布させるために先送りした」となれば、改元手続きで天皇に配慮したことになり、天皇の政治的関与を禁じる憲法に触れるおそれがあると、内閣法制局が見解をまとめたからです。

憲法改正を出来るのは安倍総理しかいない!という保守派の人は多いです。
確かに、安倍総理が辞任した後の総理候補に、憲法改正に積極的な人は見受けられません。
しかしながら、あれほど大騒ぎした平和安全法制で日本は戦争出来る国になったのでしょうか?
我が国の根幹である、皇室までないがしろにするような内閣法制局に対して何も出来ないのに、どのような憲法改正が出来ると言うのでしょうか?

これほどの状況でも、内閣法制局に関して発信している言論人が、倉山満先生、江崎道朗先生、竹田恒泰先生以外にほとんど見当たらない悲しい状況です。

我々が出来るのは「どうなるか」ではなく、「どうするか」を頭において学ぶこと。

現在の政治を読み解くために必読の本です。
私のまとめが深刻になってしまいましたが、当時の政治家のドタバタ劇ともいえる楽しい本になっていますので、是非手に取ってみてください。

世界一わかりやすい日本憲政史 明治自由民権激闘編

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