カルロス・ゴーン氏保釈 日本の司法制度を学ぶために今こそ読みたい3冊 『検証 検察庁の近現代史』『不徳を恥じるも私心なし 冤罪獄中記』『オウム死刑囚 魂の遍歴』

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 平成30年11月19日に金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで東京地検特捜部に逮捕されたカルロス・ゴーン氏ですが、3回目の保釈請求の末3月6日に保釈されました。勾留期間は108日でした。

 この件について、外圧に屈するなと言った意見から、日本の人質司法は人権無視だ!との声も聞かれます。果たして日本の司法制度に問題はないのか。新聞やネットの記事だけでは今一つスッキリしない方のために、是非読んで頂きたい本を3冊ご紹介いたします。

〇倉山満『検証 検察庁の近現代史』

 タイトル通り、近代司法制度のはじまり、初代司法卿・江東新平から描かれる400ページの大作です。難しそうだと思われるかもしれませんが、まずは、「はじめに 裁かれるの誰か」「序章 巨大権力」「おわりに 矛盾の存在」から読んでいただけると良いと思います。

 普通に生活をしている人達にとって、運悪く犯罪被害者になることは想定出来ても、犯罪者として逮捕されたり、起訴されたりすることは考えてもいないことかもしれません。しかし、逮捕されて、起訴されたら、99.9%の確率で有罪になってしまう。かなり怖ろしいことだと思いませんか?

 検察は絶対に有罪に出来るという確信がなければ起訴しない、だから有罪率99.9%なんだ!という方もいらっしゃるでしょう。これを調査したアメリカ人研究者ディビッド・T・ジョンソンの『アメリカ人のみた日本の検察精度』という著書があります。ジョンソンは日本の裁判での有罪率に疑問を抱き、実際に検察庁を取材したところ、当初、好意的だった検察官たちが、途中でジョンソンがある事実に気付いたとたん、取材に非協力的になったそうです。

 その事実とは、日本の検察は異様なまでに自白に拘るということです。

 日本の検察官はあの手この手で自白を引き出す手練手管に長けているそうです。勿論、被疑者が確実に罪を犯していてそれを検察官が温厚に聞き出しているのなら、話は別ですが、無罪の人物に自白を強要するようなことをしていたら大問題です。

 そして自白に頼るということは検察官が事前に作り上げた「ストーリー」に当てはめて、冤罪を作りだす危険性もあります。

 他にも、起訴するか起訴しないかは実際に犯罪が行なわれたかではなく、検察の匙加減であることなど様々な検察に関しての問題について書かれています。歴史書としても興味深く、憲法を学ぶものなら誰もが知っている「尊属殺重罰規定違憲判決」が検察側の視点から書かれていたり、ロッキード事件の当時は明かされていなかった「灰色高官リスト」など興味のあるところから読み進めても面白いと思います。

 さて、こちらの著書、基本的には資料に基づく歴史が描かれていますが、「はじめに」はこの時は控訴中だった「田母神事務所 公職選挙法違反事件」について書かれています。

 先程の思いがけなく被疑者になってしまう話ですが、この事件の容疑者となった田母神俊雄氏も自身が逮捕され、有罪判決を受ける未来など、都知事選挙で候補者として活動していた時は想像したこともなかったでしょう。

 この事件で田母神氏は平成28年3月7日の強制捜査から4月14日の逮捕までに10回の事情聴取を受け、保釈されたのは9月29日。169日も勾留されていたのです。

 カルロス・ゴーン氏に関しても長い勾留期間が海外で問題にされています。これが果たして正当なものなのか、それを考えるための一冊が、田母神俊雄氏自身の著作となります。

〇田母神俊雄『不徳を恥じるも私心なし 冤罪獄中記』

 こちらでは『田母神事務所 公職選挙法違反』事件に関する経緯が前半で詳しく書かれます。どのように事件が発生したのか、なぜ都知事選から2年も経ってからの逮捕だったのか。検察の取り調べの態度から、拘置所での生活。発売が平成28年5月22日の一審判決の直前でしたので一審の無罪を信じて締めくくられています。

 検察の自白偏重の問題点は先ほどの倉山先生の著書『検証 検察庁の近現代史』にも指摘がありましたが、こちらの田母神氏の著書ではより生々しく自身の体験談として書かれています。

 取調官が居丈高に「嘘を言うな!」「助けてやろうと思っていたのにな!」「女々しいぞ!」と大声で吠えることもあれば、「白状すれば在宅起訴ですむ」「助けてやろうと思ってますよ」などと甘い言葉も使い、自白を促す。

 カルロス・ゴーン氏の勾留でも問題となっていますが、日本では事情聴取の際、裁判官が臨席することが許されていません。このような状況で、時に居丈高に、そして罪を認めれば寛大な処置を取ってやると検察官に言われて普通の人が嘘の自白をしないといえるのでしょうか。

 田母神氏の場合、最初、横領の疑いで強制捜査が入ったのですが、結局横領は不起訴でした。やってもいないことは認められないと田母神氏は無罪を主張し、逮捕、勾留されました。それで、先ほども述べたように169日もの長期勾留されることになったのです。

 さて、勾留されたらどうなるのでしょうか。

 田母神氏が逮捕された後、何度も保釈請求は行われましたが、請求は棄却されました。一般的に保釈請求を棄却する理由は逃亡と証拠隠滅の怖れがあるからとされています。

 そもそもこの事件、都知事選が平成26年2月、お金が配られたとされるのがその3月。そして強制捜査が平成28年の3月と2年も経ってからの捜査です。関係者の証言も曖昧ですし、証拠書類に関しては、強制捜査で領収書の類も、田母神氏の携帯、パソコンなども全て押収されて調べられました。そして、そもそもの疑惑がチャンネル桜のインターネット放送や週刊文春の記事になったのは平成27年の2月です。証拠隠滅をしようと思うのならそれから逮捕される間になされているはずです。そして、田母神氏はテレビにも出ていた有名人です。どのようにして逃亡するというのでしょうか。

 勾留される前には10回の事情聴取が行われました。では勾留された後は?

 こちらの著書によると、逮捕後、三週間は検事がやってきて取り調べが行なわれたそうです。拘置所での取り調べは撮影されており、撮ったものを弁護士が見ることが出来るものだったため、極めて紳士的になり、所謂「泣き落とし戦略」が行われたそうです。しかしながら4月末頃になると取り調べる内容もほとんど無くなり、5月2日に公職選挙法違反で起訴されると検事による取り調べは行われず、田母神氏の「お仕事」は裁判所に出廷することになったとか。では、9月29日までの勾留は一体なんのためだったのでしょうか?この時点で田母神さんはあくまで容疑者で犯罪者ではありません。先ほども述べたように、証拠隠滅も逃亡も非現実的です。外界から遮断し、苦痛を与えて自白をうながす以外の意味があったのでしょうか。

 この本では田母神事務所公職選挙法違反事件について詳しく知ることが出来るのみならず、拘置所生活がどのようなものかがユーモア好きな田母神氏らしく描かれています。しかしながら、元航空幕僚長であり屈強な田母神氏ならともかく、拘置所暮らしというのは普通の人にとっては苦痛なものには変わりはありません。

 拘置所では被収容者たちが他の被収容者たちと顔を合わせることは出来るだけないようにされているそうで、面会は最初は弁護士のみ、途中から実の妹さん二人だけは許可されたそうですが、非常に孤独な状態にあるわけです。

 規則正しい生活を送るのは勿論、横になってよい時間も決められていて、しかも椅子もないそうで、腰の悪い人にはかなり辛そうです。田母神氏は、朝、起床時間前に目が覚めた時など、便器に座布団を置いて、そこに座って本を読んでいたのだとか。これを聞いたとき、床に座る習慣のない国の人にとっては、かなり辛いのではないかはと思ってしまいました。調べたところ、ゴーン氏は途中からベッドのある部屋になったそうで、さすがにベッドに腰かけることは許されていたのではないかとは思います。容疑者とは刑が確定していない状態では「推定無罪」の原則で当然、犯罪者ではないのですから、このような拘置所の在り方はどうなのかと思います。ゴーン氏が保釈されたからにはこの辺は問題になってくるでしょうね。

 さて、これまでの記事は検察批判のようになってしまいましたが、決して検察庁が悪の組織だとかそういったことが言いたかったわけではありません。司法に係る人としては、検察官、弁護士、裁判官がいますが、その中でも圧倒的に正義感が強い人の集団が検察官だというのはノンフィクション作家の門田隆将氏です。

〇門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴――井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり』

 『検証 検察庁の近現代史』では、日本の検察の自白に対するこだわりについて書きました。これが勿論、脅迫などによる、検察のストーリーに従ってなされるものなら問題です。しかしながら、容疑者の気持ちに寄り添い、粘り強く本心を引き出し、それによって事件の解決につなげるようなものなら勿論批判されるようなことではありません。

 こちらの著書では固く心を閉ざしたオウム真理教幹部・井上嘉浩が、取り調べに投入された人間味あふれる公安部の刑事や多くの捜査官、井上の両親の説得により、人としての心を取り戻し、麻原の洗脳から解かれ、罪を償おうという決心に至る様子が描かれています。

 公安の刑事は井上の人生を掘り下げ、両親の話も熱心に聞き、それを被告に伝えました。井上は多くの事件に関与していたため、この公安の刑事以外にも多くの捜査官が井上被告と関わっています。被告を責め、一方で両親の想いや、犠牲者たちの無念、遺族の慟哭を切々と説かれた井上は、そんな中で、命を失ってしまうのではないかというほどの心身の苦しみの中、麻原の洗脳から解かれて行くのです。

 井上被告はその後、自身のしたことを克明に語り始め、自身の裁判のみならず、多くのオウム裁判に証人として出廷しました。しかしながら、彼の証言を元に、真相を究明すべく多くの証人が呼ばれて行われた裁判を否定するような検察の論告求刑が行われました。井上の証言は一連のオウム犯罪立証の柱であったにも関わらず、検察は井上の証言を「信用がならない」として糾弾。死刑を求刑したのです。

 それにも関わらず、一審の裁判での判決は「無期懲役」でした。裁判官は事件の詳細を正しく理解し、井上の訴え、彼の反省の念ををしっかりと受け止めていたのです。

 その後の高裁では、特別に新しい証拠がなかったにも関わらず、一審がなかったかのように死刑判決が下されました。最高裁でもやはり死刑が求刑。平成30年7月6日に刑が執行されました。

 井上のしたことが、死刑に値するのか無期懲役であるべきなのか。その是非を問うことをここではしませんが、この一連の裁判が死刑ありきで行われたのは間違いないでしょう。

 最初に紹介した倉山満先生の『検証 検察庁の近現代史』とこちらの著者、門田隆将氏の初めての著作『裁判官が日本を滅ぼす』でも描かれていることですが、検察官、裁判官もやはり人であること。関わった人により、判決が左右されることもある。しかしながら、同じ事件でもそれを扱う検察官や裁判官で大きく刑が変わってくるということはやはり問題があると思います。

 これは本当に難しい問題で、量刑を「二人までなら無期懲役、三人なら死刑」のようにロボットのように判決を下すのが正しい訳ではありません。しかしながら、現実には全くもって常識がわからないロボット裁判官が多く存在する、それもまた日本の司法の問題だといえます。

 こちらの著書ですが、読むべきところは司法の問題にとどまりません。真面目で優しい少年だった井上嘉浩がなぜカルト宗教に入団し、恐るべき犯罪に手を染めてしまったのか。そして、その彼が如何にして洗脳を解かれ、自らの罪を償うべく行動したのかなどが緻密な取材によって描かれます。513ページの大作ですが、読みだしたら止まらなくなる作品です。

 ざっくりと紹介してきましたが、どの本も大変読みごたえがあります。カルロス・ゴーン氏の事件の全容もこれから明るみにされると思いますが、その過程で日本の司法制度の問題についても様々な議論がなされることと思います。先程紹介した3冊に加え、ついでになってしまいましたが、最後に紹介した『裁判官が日本を滅ぼす』も必読の名著ですので是非お読みください。